2013.08/22 弱肉強食
先日、モンテッソーリ教育の松浦公紀さんの講義を拝聴しました。子供に対してあれこれ指示するのではなく、子供を見守ること(観察)から子供の興味のピーク(敏感期)を察知して、自ら学べる環境を用意する、というのが大人の役割だと、モンテッソーリ教育の内容を理解できました。この方法だと子供自らに内在する発達力を120%成し遂げることが出来るからです。能動性や自発力、想像力、つまり生きる力が育ちます。本当に素晴らしいと思います。その中で、気になるお話しがありました。見守るが基本ですが、「善悪の概念はしっかり教えねばならない」とおっしゃっておられました。「何も言わないこと」と「放任」は違う。放任が招くのは「弱肉強食の社会」「いじめ社会」です。と、おっしゃっていました。この社会の闇の根源を見抜いてらっしゃる、と感動しました。
今の実社会は、もう既に、弱肉強食だと感じるのは私だけでしょうか?
正しいことを正しいと言えない社会になってしまっていると思うのです。悪いことは悪い、良いことは良いと、伝えたとき、問題は起こります。悪いことを注意すれば、逆ギレする子供や大人が沢山います。良いことを良いといえば、嫉妬が起こります。うかつに他人と話せない世の中になってしまったと感じます。私自身、昨年の夏、近隣の公園のトイレで起こった出来事を注意したことがきっかけとなった、その一連の事象で、生活が変わるぐらいいろいろな想いをしました。何が正しく何が間違っているのか、解らない世の中です。一種の恐怖を味わいました。まさに、弱肉強食の無法地帯と言って良いでしょう。 あの時は、苦痛や恐怖で前が見えなくなりました。誰とも関わりたくないと思いましたし、公園や近所の子供に何があっても、私には関わりのないことと思うようにしようと、無関心な心が芽生えました。こうしてますます、社会は、人々に「放任」され、ますます「弱肉強食」の社会になっていくのかもしれません。
「放任」は、一種の罪ですね。社会をむしばんでゆく。
恐怖や痛みに心が折れてしまった私を誇れる人間だとは思いません。自分のことを小心で臆病者だともつくずく思います。でもいずれ、誇れる人間に戻りたいと思っています。そのためには、恐怖や痛みを克服せねばなりません。しかし、それは現代社会ではあまりに無鉄砲なことなのかもしれません。大人の社会がこんなで、子供に善悪の概念をどう教えるべきか?と悩みますが、やはり、他人に迷惑をかけること、暴力や、暴力的な行為や発言はなど人を傷つけることはいけません。次の世代に伝えるべきことは伝えねばなりません。多くの大人達が放任しないでほしいと思います。放任しない大人こそ、本当に強いのだと私は思います。
2006~2012 後日掲載予定
2006~2012のコラムは、後日掲載予定です!!。
2011.01/15 リズム
人が生命を感じる時、それは胎内の鼓動。
音は生きていることそのもの、存在証明。
我々は目もまだ見えぬ頃から音で世界を感じていた。
そして、この世界もまたリズム。暦、木や、水や、風も、息使いも、血も流れも、言葉も、やりとりも、みなリズム。
リズムはやがて唄となり、音楽、音を楽しむこと。
音は理屈を超えて、我々に直接働きかける。
我々はその方法を、生まれる前から知っている。

我々は、音を楽しむために生き物なのかもしれない。

音は存在証明そのもの。
そしてリズムは、どんな存在なのか。
そして、音楽は、導き、進むべき、行く手を、導く方向となる。
2010.03/25 エネルギー、オーラ
 我々の知り得るものの全ては原子から成っている。原子はさらに電子、原子核(陽子、中性子)で構成されている。その構造はあらゆる動きの源である。それらの流動的な動きは東洋では気とされ、西洋では結果値を示すエネルギーとして認識されてきた。我々の気分という曖昧なものさえ、脳内の物質の種類や量による神経伝達という流動的な動きの結果に過ぎないのである。  「気」とは一般的には可視できない流動的な動きを意味する。天気、空気、気候、気温、気持ちなど、我々は目に見えない動きを「気」という字を使って表してきた。「エネルギー」もまたそれ自体の流れは可視出来ないが、流れの結果として起こった現象から流れを数値化できるものがエネルギーである。「気」も見えないエネルギーの流れだとイメージすると認識しやすい。たとえば、マイナスイオンそれ自体は我々は可視できないが、計器での計測は可能だし、感覚で感じることはできるかもしれない。たとえば、今日食べたご飯がブドウ糖に分解されて脳や体の活動に変わることは可視できないが、脳や体の調子がいいことはなんとなく感じることができるかもしれない。そのような目にみえないエネルギーの流れを視覚化できたら、経験をこえた現象や世界を瞬間的、感覚的に表現伝達できるのである。 これらのエネルギー表現は古くから、風や雨、雪、雲、雷、川や海、炎、動物などの自然現象的なアイテムの強さや方向やタイミングで心象的に表現されてきた。歴史上ではそれらのエネルギーはそのまま山の神、海の神など神化されたものも多い。また、仏像などの背後の円や炎などは人や像から発するとされる霊気.霊的な雰囲気つまり後光(オーラ)を可視化したものの代表例である。近年ではアニメーションを通して可視できないものを可視化表現した多くのファンタジー作品が生まれた。現代ではCG技術で実写合成やフォトリアルなエネルギーの可視化表現も多く製作されている。 映像時代のエネルギーの可視化は光として表現されることが多い。光の量や質や動きによって、可視化するエネルギーの量や質や方向とエネルギーの存在自体を表現している。その表現は粒子、発光、後光、閃光などが多いが、虫やネズミの群れ、邪悪な者、血、炎、ゾンビなどの負のエネルギー表現まで様々である。 我々の可視的現実経験値にはあまりないそのエネルギー表現は、諸々の初体験のように刺激的に印象に残る。その表現がどれほど不思議で魅力的で美しくても、エネルギーの可視化は表現技術の一つであり、それ単体では存在しない。なぜならば、その動きの因果関係、つまり原因と結果と流動の起点と方向にこそ、エネルギーの存在意味が示されるからだ。
2010.03/25 想像力と、空想的な世界
空想の原点は、転置かもしれない。たとえば陸のものが空に浮いていたり、海のものが陸にあったりしたら、なんて考えると空想がはじまりまる。我々は思考の関係で未知のものをいきなり思い浮かべることができない。未知のものは既知の延長上に存在する。既知の存在を未知の配置つまり転置にすることで未知の不思議な感覚を覚えることができる。未知のことを伝達(表現)するときも同様に既知に比喩する工夫が必要となる。こうして我々は既知の転置と想像力を駆使して未知の空想的な世界を想像する。 1970年代のアメリカのテレビドラマで猿の支配する惑星の話があった。水中で取れる果実は陸の果物キューイのようだった。また魚は砂の中にいて砂に釣り竿をおろして狩猟していた。しかも人間のように振る舞い社会を構成しているのは猿で、人間は愚かな動物扱いというストーリー自体が転置そのものであった。そのよう転置手法の空想的世界観は古い手法になるどころか、最新映画のハリウッド映画においては、よりリアル感のある論説を添えて、ままごと的な空想を超越して、もしかしたら存在するかもしれない世界にまで作りあげらている。 想像力を超えた転置は、地球の歴史上たびたび出現してきた。場違いな加工品という意味のオーパーツ(Out Of Place ARTifactS)はその時代の技術ではありえないものすなわち転置が現実に存在する不思議の代表的事例である。また考古学分野の文明文化も常識を超える転置の宝庫である。我々は現状その転置の事実に思いを巡らし想像力で理論を後付しているにすぎない。我々人間は認識の世界が全てだと思いがちな癖がある。だからこそ、認識外の不思議なことに刺激となり、想像が触発されるのである。 想像することのはじまりは何か、想像の動機は何か、これもまた、今に存在しながら今じゃないことを考える、つまり転置から始まるのだ。 空想とはパンドラの箱のごとく否定から始まるかもしれないが後に残るものは肯定である。空想することを禁じれば、人間の未来も希望も消えるような代物である。それほど空想の世界とは魅力的で想像の原動力である。
2010.03/25 キャラクター
人は、キャラクターを見るだけで何かを感じ思ってしまう。憧れ、恋慕、親近感、愛着、友情、同情、悲しみ、恐怖、怒り、様々な感情を我々に喚起させる。キャラクターは別世界へ変換装置そのものだ。なぜならば、キャラクターが我々人間と同じように情緒をもった「生き物」で、ある世界で生きていて、我々人間は、その形態とりわけ人型に情緒を映しやすい特性があるからだ。  キャラクターとは、イメージがビジュアル的に成立した「生き物」的な形態の存在である。画像で表現される前は、物語の登場人物であったり、なんらかの意図の偶像であった。キャラクターという言葉の語源は、ギリシャ語で kharakter、「刻み込まれたもの」という意味である。そして、characterとう言葉には、「文字・記号」「小説や劇の中の人物」「性格,性質,人格」という3種の意味がある。これらの三つの意味はそのままキャラクターという言葉の歴史を示している。古代の呪術や宗教なに使われた道具、ハニワや土偶、明らかに実用物でないその偶像は、作者の「想い」を担った最古(壁画よりも古い)のキャラクターといえる。人間が文字よりも先に偶像(キャラクター)を必要とした事実は、キャラクターが文字以上の存在であったことの証である。その後、ギリシャ時代に、神話や戯曲という文化とともに、キャラクターは、役割や性格を伴った「物語中人物像」へと変化し「登場人物」という概念が定着する。印刷技術の発展後、本の挿絵によりイメージを伴った形として一般化した。それは世界観を瞬時に連想させるものとなり、物語とキャラクターの関係は逆転した。「不思議の国のアリス」(1865年)は主観表現小説だが、その挿絵は未知の世界の疑似体験への入り口となった。  1983年、日本にも東京ディズニーランドが開園する。アニメーションの中で生き生きと動くキャラクターは、ディズニーランドという場所で、家を持ち、ショーやアトラクションでゲストをもてなし、一緒に写真をとったり、握手をしたり、実体のあるキャラクターとなった。ディズニーはアニメーションという技術を「生命を吹き込む魔法」と表現しているがディズニーがキャラクターに与えたのは、役割、シンボル、ビジュアルだけでなく、命そのものであった。  その後、漫画やアニメーションやテレビや映像技術の発展、SFブーム、商品や玩具、ギフト用のキャラクターも登場し、キャラクターはより身近になった。またデジタル画像技術の発展により、より形も動きも表現もリアルなり、現実の延長上に存在しているような感覚をもたらした。さらにゲームブーム、、伝達技術の方向性の進化(一方通行→双方向通信)などにより、キャラクターはweb上のアバターやゲームのキャラクターのように自己の化身・分身として存在し、我々はキャラクターになって別世界を闊歩し冒険し一喜一憂することができるのである。自己とキャラクターの境界は無くなりつつある。
2010.04/24 ままごと
ままごとは、コミュニケーションの種(場)。コミュニケーショントレーニングそのものである。子供はままごとを通して大人のコミュニケーション術を自分のものにしていく。そして大人のマネゴトで大人を習得するのである。習得する質は周りの大人(見本・手本)の質に依存することになる。“カエルの子はカエル”の法則の仕組みがここにある気がする。
そして、我々は大人になってもなお、ままごとを通して成長する。我々が学んでいる学習課題はままごとそのもの。見本・手本を頼りにマネゴトから始める。そして、webもゲームも、実態があるようでもOffしてしまえば抜けられる世界。ままごとそのものに他ならない。 ままごととは大人・子供にかかわらずコミュニティーそのものである。
2009.01/30 世界の共有
私の子供は1才7ヶ月。頻繁に、物の名前や関係をどんどん意識しだしている様子が、日々増える言葉やその使い方から感じられる。子供はそのつたない覚えたての言葉で盛んに何かを私に伝えようとする。子供自身その覚えたての言葉をとあるごとに繰り返し発することで、それがそれなのだと認識を深めているのかもしれない。しかし、ただ口から発しているのではなく、その言葉は私に向かって発せられている。そして、私が子供を肯定することによって、子供は「それはそれ」と認識を深めるのだろう。しかしまだ発音もおぼつかない。子供が「にゅうにゅう」と言い、「あ、牛乳ね」と私が子供の言いたいことを受け止める。「ママお」と言い、「ママのカップね」と受けとり、「はーい!」といい、「おかあさんといっしょ(TV番組)ね」と受けとり、それなりのやりとりが成立するのは、子供の世界を私が共有しているからだと思う。子供は自分の言葉や行動やゼスチャーが伝わることを通して、子供は子供自身の行動・子供自身を肯定できるのだと思う。だから発達と概念で今の時期、子供と世界を共有するといういことは、子供と私の関係の構築にとっても、子供自身の、人間社会の中で最も必要な「伝達すること」を育んでいるのだろう。大人になってしまった私は、多くの人の中に居ながら、いつも壁と話している気持ちになることがままある。適切な時期に必要な環境がないと発達障害を生んでしまう、逆に必要な時期に必要な環境を大人が助成してあげることで子供の発達は著しく伸びるという知識を親たちが持つことを望む。ここで言う環境とは大抵は“親の接し方”の問題なのだ。
「伝えること」「受け取ること」が人間として生きてゆく上で一番大事なスキルだと私は思う。「伝えること」「受け取ること」がそれなりに出来る人間を未来に送り出したいと思う。
2008.09/08 内在リズム
先日教育TVで赤ちゃんと母のハーモニーというコミュニケーションの話しをやっていた。赤ちゃんは音やリズムを教える前まら受動的にも主動的にも持っているのではないかという内容の研究発表があった。私の子供は今1才3ヶ月で自分で自由に動きがとれるようになってきたばかり、することも、出来ることが増えてきた頃。最近教えてもいないにいろいろやって私を驚かせてくれる。飲み物をこぼしたとき、手元にあったタオルを取って拭いた。まだ教えたわけじゃなく、私の行動パターンをまねたと感じた。またクレヨンを片付けたとき、並び順を色を色相環の順に並べ直した。色を意識していることも驚いたが、その並べ順を意識していることにも驚いた。しかも、私がパターンと同じ。我が子の行動に驚かされるこの頃だ。
なぜそんなことが出来るのか?。1才3ヶ月の言語能力や思考力から考えて、思うに、多分、論理的思考で行為しているのではないと思う。だけど、「こぼしたら拭く」が出来るのは、「こぼれたら拭く」というリズムが存在するのではないだろうか?。生活のリズムというか、夜は眠くなり朝は目が覚めるというようなそれと同じ。大人場合だってリズムがなければそんな当たり前のことも実は出来なくなる。物並びもまたリズム。色の順番もいつものリズムがあるという訳なのでは?。成長して学生や大人になってからも、何かを覚えたり習得する時は、やはりリズミカルな方法だと効果的に学習習得できる。考えてみれば、赤ちゃんに音楽やリズムを何一つ教えていなくても、赤ちゃんはお腹に中にいる時から音やリズムを鼓動や外部の音で体験して来ている訳で、生まれた時は既にリズムを内在していると言っても不思議はない。その内在するリズムは、まさに、「生きる力」なのだろう。
2006.03/11 インタラクティブコミュニケーション
かわら版をはじめ・・新聞・書籍、雑誌、テレビとものやことを「伝達する技術」は歴史を追って変わってきたが、そのベクトルはつい最近まで変わることなく、伝達者から視聴者へというアナウンス(一方)的なベクトルだった。
戦中戦後、高度成長期に、社会の価値観が物質主義に陥って、人と人のコミュニケーションにまで、物質的で一方通行の仕組みが蔓延した。
そんな社会の中で育った我々は、現実社会において、双方向のコミュニケーションに不慣れなまま、会社や家族、学校などのコミュニティーで生ずる人間的な問題を双方向に納得したかたちで解決できぬまま、他者とのつながり自体にストレスを起こし、癒しを求める現代となったと私は考察する。
人は伝えたい相手がいるからこそ、言葉を覚え、文字を覚え、社会を創り、成長し、生きる動物である。人はコミュニケーションがなければ・・生きれないのである。 だとすると、人間が本当に求めているものは、コミュニケーションだ。であれば、癒しは良質のコミュニケーションによってのみ満たされのである。 コミュニケーション技術は、双方向(インタラクティブ)であってこそ、学べるのである。
2006.02/20 エンタメ
最近思うのは・・事実を突きつけられて・・受け入れられる人って・・結構強い人と思うのです。
大抵の人間は・責任転嫁するか・・知らんぷりしるか・・。事実って本当に意味あるのかな?っとさえ・・思ってしまう場面が多々あります。人の原動力は2つ。一つは不安と怒り、もう一つは希望と願いです。
哀しい事実からは・・ワンクッション置かないと・・なかなか希望的に物事をとらえることは難しいから、ありのままの事実を受け入れる段階で逃げるかつぶれる人が多い。また、そうせねば生きれないほど・・精神が弱っているときだってある。
だから・・私は・・エンタメ屋やっているのだと思うのです。不安に駆られて・・むやみに右往左往する人ばかりの・現代には・・その方が・・適切な処方箋だと・想うからなんです。エンタメって・・「希望への近道」なんじゃないか・・・なんて・・想う今日この頃です。
2006.01/10 広告
広告とは何か?。確かに人と人、人とものをつなくという意味ではコミュニケーションの一種であるに違いない。しかし、人と人の間に存在するコミュニケーションは全て広告であろうか?。親と子に間のコミュニケーションは広告か?、話したいと思うモノと話すことが広告か? 発せられた言葉の全てが広告か? はせられた音の全てが広告か? 産み落とされた絵画の全てが広告か?
広告は、ある時代のコミュニケーションの一種であったかもしれないが、それ自体ではない。広告とたのコミュニケーションと区別するところは、つまり、「欲望」の意図が発端か?である。欲望から発したモノか否か?それが、広告と他の表現の違いである。
欲が根底にあるので、広告というモノは、等身大でなく、誇張であり、誇大であることが往々にして多い。現物との差が大きければ多きほど、広告の表現物としての価値は低下する(誇張や誇大が笑い(ギャグ)として成立している場合は別として)。広告としての価値が低下すれば、それに追従してコミュニケーションツールとしての価値のも低下する。
広告が純粋に等身大のものを上手に伝える手法なら、広告にも感動するが、広告が、もしも、欲望の手先なら、一方通行のメディアである広告は、双方向通信のこの時代、コミュニケーションの一種というほどのものであろうか?
若き頃、マスコミの世界に身を置いた者として、当時も今も広告のなした偉大な功績は疑う余地もなく尊敬するところではあるのだが、広告とは全て無く、ただの入り口にすぎないことを忘れていないだろうか?
誰かの欲望だけが一人歩きしたただのアナウンスに耳を傾けるほど・現代人は暇ではないと思うこの頃である。 広告は大事だが、広告がデザインの主流である時代は通り過ぎた頃ではないだろうか? (なかま)
2005.08/13 動く
さて、私自身、何をしてたのか?ただのお節介だったのか? (よりみち広場最終日に思う。)
いまだ、広場の意味合いがよくわかりません。 私の想い(こういうのやったらいいかな?みたいなの)を たまたま、みなさまのおかげで、 活動できたといだけのことです。 「動いた」ということで、あって、それは、「結果」を求めて動いたのではありませんでした。
「結果」が大切という一般論も嫌というほどわかります。
でも、その前に、「動く」ことの方がもっと大切だと思う今日このごろです。
だって、動く前の結論なんて、紙に描いた餅?ですから(笑)。お腹にたまらないじゃないですか(笑)
2005.08/12 完璧で最高なもの
がんばり屋さんの僕たちは、常に「最高のもの」「完璧なもの」を自分に求めてしまうけど、すべてのものが、すべてのことが、どの場合に置いても完璧で最高だなんてことは、あり得ない。
場所や、場合を限定して、初めて、それは、完璧で最高のものになりうるのだと思う。
だから、「最高のもの」「完璧なもの」を創りたいのなら、時間と場所とターゲットをしっかり決めておく必要がある。その限定された世界において、初めて、それの最高で完璧な部分が活かされるのだ。
もし、すべての場面において、最高で完璧なものがあるとするなら、それは、形が無く、曖昧で常に変化できるものだのだと思う。 しかし、それに確実性を求めることはむずかしいかもしれない。
場所が変わっても、時代が変わっても、生きるということは、、変化し続けることであり、不確実を許容することなのだと・・ 思うこの頃です。
2005.08/12 感じる
何かを感じること、感じ取ること、これが、興味の始まりで、可能性の始まりだと思うのだけど、感じることの内容は、様々。
とりわけ、「好き」「嫌い」は、わかりやすい導入口。
一般的に好まれるものや、一般的に嫌われものは、統計屋さんに任せて、(その手の資料はどこにでもある) 自分の「好き」「嫌い」に目を向けると、意外と面白いことが見えてくる。「なぜ好きなのか?」「なぜ嫌いなのか?」と、まず掘り下げる。 一個目の答えが出る。たとえば、「色が嫌い」だとすると、なぜ、その「色が嫌いななのか?」とさらに掘り下げる。その答えに、また「なぜ」を頭につけて・・何度か掘り下げていくうちに・・ 自分の知らない自分にたどり着く。自分の知らない自分、つまり、それは可能性だ。
なかには、「理由も答えもない」という感覚的なものとしていう場合もあるだろうし、「なぜ?」か、わからないってこともある。 答えが、無いのも、また、可能性であたりする。 ま、答えなんて、あってもなくてもいい。答えが出たときに、わかるもんだし、たとえ、答えがあったとしても、それは、毎日変わり続ける今のこの瞬間の答えでしかないのだから。
大切なのは、問うて、考えたということ。
そこに着目したという自覚なんだと思う。
その着目したこと事態が、僕らの行きたいところへのガイドに他ならないから・・ と・・思うこの頃です。
2005.08/09 抜けている
○○(←何だっけ?)
確か・・・。
なんか、抜けているところは、ちゃんと誰かが補ってくれて、ああ、なんてありがたいんだろうぉ・・と思う。 抜けていることも、ある意味他者の入り口で・・あったり、抜けていて、丁度いいなんて・・思うこの頃(笑)。みんながのびのびとできれば、いいね。
2005.08/08 今を創って、明日をつなげる
今しかできないことをとくかくしよう。
今という偶然が、私の今日を創っています。 心を揺らしす出会いってそんな偶然がもたらしてくれるのだと思ったり、もちろん、授業でも、仕事でも、地域でも、そんな大切な出会いが毎日あるような気がしたり・・ そんな今日を創ることができれば・・と・それが、私の今の原動力です。そして、お話ができれば・・と願います。
言葉でなくてもいい、仕草でも、作品でも、活動でも、ファッションでも、何かが伝わる物があれば、それはある種の会話だと思います。 そして、僕ら個々が、僕ら個々の行きたいところへ繋がればと思っています。
2005.08/06 体が資本
美術は文化系だから・・と思うけど、思いの外、体が資本だなぁ・・・と感じる場面が良くある。
たとえば、私が、普段している仕事(3DCGデザイナー)でも、ここ数年、食事と寝ている時、お風呂に入る以外は、PCの前にへばりついている。家で仕事をする月は悲惨だ、歩く距離もベッドからPC、PCから冷蔵庫、PCからお風呂、そんな距離しか歩かず、靴を履いて表に出るのは1週間に一回食料を買いに行くときだけ。そこまで、時間を節約しても、一日6時間睡眠時間が取れる日はマシだ。こんな不健全な生活をしていると、普通の人なら体をこわすだろう。 私は先に頭がイカレてしまたが・・(笑) ある人は、「デザイナーってある意味肉体労働ですから」なんていってたっけ・・
ましてや彫塑とか絵画とか、想い粘土や石膏やパネルを持ち運び、立ちっぱなしの作業が続いたり・・ 夏スクのどの教科をとっても、・・・というか、夏スク自体、体力勝負的なところがある。
良い作品をつくりたいなら、十分な体力も必要なんだなぁ・・なんて思った今日でした。
2005.08/05 素材は自分という段階
技術と知識が評価の対象なら、悩むことはない、ただ、ただ、やればいい。
だけど、自分の作品を創ろうとすると・・自分の中に、何かを見いだせずに・・苦悩する。
我々は、なぜ、専門学校を選ばず、美大を選んだのか? その違いがある気がします。
やっぱり、自分の感じていることを材料に出来るということ、自分自身を素材に出来るということ。 その段階になると、結果が全てでないことが分かって来るような気がします。 作品を作り始める瞬間から、作品が出来てから数年が経ての経過も含めての全てが、 一つの長~い自分という作品だということを感じて、今をその過程として・・緩やかな気分で、寛大な気持ちになれるのかもしれません。 なんて、ことを感じた今日でした。
2005.08/04 手探りの面白さ
私は、武蔵野美術大学の四年生通信が開設された時に、2年編入学したんですが、 当時は、課題を出すシステムや、カリキュラムも手探り的なものが多かったように思います。 四年目にして、カリキュラムが安定してきたものや、先生の入れかわりも安定してきたということもあり、今は、課題や、授業に関しての情報がけっこうあるのだなぁ・・と思った次第です。
四年というわずかな月日ではありますが、大学的にも学生的にも、年数を積み上げて来たのだなぁと感じます。
情報(マニュアル的なものや見本や前例)が、あるということは、それはそれで利点ですが、無いことにも利点があったように思います(不便も多かったですが・・)。 手探りのおもしろさ、手探りの時の感覚の敏感さ、手探りの時の柔軟な思考・・・ そんなものがあったような気がします。 そんなことを思った今日でした。
2005.08/03 形や形式のないもの
(よりみち広場開催にあたり思う。)
昨日、仕事後回しにして、学校で何やってるんです?と 仕事仲間から聞かれて・・返答に困る。「教室の留守番してます」なんて回答してしまったぁ
夏スク広場は、展示会でもなければ、ワークショップでもない。目的はコミュニケーションの一種だが、結果や目標があるわけでもない。参加してくれる人がいて、初めて成り立つもので、参加してくださった方が・参加したことによって・・何かが少しずつ変わりつづけるみたいな、インタラクティブな広場でありたいと思っているだけ。
分かち合える物(今は、時間と空間と経験と知恵ぐらい)を分かち合って、何かを感じて、また、別の場所で何かのエネルギーになれば・・それでいいそんなことを思っているのだけど・・・
伝えるためには、形や形式があった方が、単純でわかりやすいから・・ こういうの・・話してわかる人少ないだろうなぁ・・と思いつつ 今日もまた、昨日と違う夏スク広場だったよ・・と